鎌倉石の採石場は横穴だった

 

 

家から歩いていけるところに衣張山という標高120mの小山があります。その山中に鎌倉石の石切り場があったという話は以前から聞いていました。しかし場所を確定することはできず、見たことはありませんでした。
先週末に参加したまちあるきのイベントでその石切り場跡を案内してもらいました。それは山道のわきに洞窟みたいな大きな口を開けていました。僕は外国の石切り場のような垂直の石壁を削り取っている場所をイメージしていたので、目の前にあらわれたそれが横穴であることにちょっとびっくりしました。どちらかというと地中に広がる感じが大谷石の採掘場に似ています。中は鉤の手に曲がっていて、教室が3つくらい入るほどのひろさで、天井までは4〜5mありそうです。けっこう大きい。つまりこれは鎌倉の谷戸にたくさんある「やぐら」の拡大版と言えます。ということは、将来は共同墓地や核シェルターになるかも。

ひとりサマータイム・ブルース

今年の夏は暑かったですね。とても暑いことを酷暑といいますが、この調子で残暑がつづくなら残酷暑ですか。
当事務所はエアコンがありません。築五十年の古民家を借りて事務所にしているのですが、無くてすむなら建物に余計な工事はしたくないのでエアコンをつけていないのです。
この古民家で仕事をしはじめて今年で7年目になりますが、夏場はすべてのふすまをはずして窓を全開にして風をいれながら仕事しています。扇風機、うちわ、すだれ、風鈴、冷えた麦茶に蚊取り線香といった「日本の夏」を地でいっています。さすがに日中のお客様との打ち合わせは喫茶店ですることもありますが。
しかし今年のお盆前後の暑さは例年にないものでした。温度計で室温を測ってみると8月12日の午後1時過ぎに室温が34.1℃でした。この日は四万十市で41.0℃の日本最高記録が出たましたね。こうなると作業効率はがくんと下がるので、いっそ昼寝しようと思ったのですが、暑すぎると眠れない。昼寝の習慣がない日本人が暑いからって急にスペイン人みたいになれませんね。
そこで、昼の作業停滞分をおぎなうため、早朝に仕事することにしました。5時に事務所に来て朝飯前にひと仕事することにしたのです。するとこれはさすがに涼しくて、とてもはかどります。いつものバイクでなくジョギングでまだ明けやらぬ町をひとり走ってくるのも気持ちがいい。8時にいったん帰宅して家族といっしょに朝食をとってまた事務所にもどります。終業はこれまでどおり7時です。帰宅してまた家族と食卓を囲みます。夕食後は急激に睡魔に襲われ10時前には寝てしまうのでテレビも見ません。
ようするにこれは私の一日が3時間ほど前にずれているということで、つまり外国でいうサマータイムではないですか。ひとりでサマータイムしてたわけですね。ひとりサマータイム・ブルース。イエイ!

風致と歴史的風致

これまで県条例だった「風致地区条例」ですが、制度が変わって鎌倉市が新たに制定することになり、案を公開して市民の意見を募っていました。その案には新たに「前文」がつけられました。鎌倉市独自の前文です。そこには以下のように、国による「都市の風致」にならんで市独自の「鎌倉の風致」が新たに定義されています。

「都市の風致」とは、都市において水や緑などの自然的な要素に富んだ土地における良好な自然的景観であり、(中略)「鎌倉の風致」とは、都市計画区域内に存在する丘陵 や樹林地、またはこれらと一体となった水辺地、若しくは、その状況がこれらに類する住宅地等、さらに、「古都における歴史的風土の保存に関する特別措置 法」による歴史的風土を有する土地等を含む良好な自然的景観に富んだ土地の状況をいいます。(鎌倉市風致地区条例案、前文より)

これを読んであれっと思いました。今まで自分が思っていた風致という言葉の意味内容とちょっとちがうのです。私にとっての風致とは、風雅な趣のあるまちなみ、のことです。具体的には庭園と屋敷とか宿場町の旅籠とかハイカラな西洋館などのある風景です。つまり自然を取り入れつつデザインされた人為的な創作物のある景色であり、山中や磯辺などの自然度100%の場所は天然であって風致ではないと思っていました。しかし前文では風致とは「良好な自然的景観」と言っているので、違和感を感じました。そう思いながら国交省のHPを探っていると「歴史まちづくり法」の関連ページで「歴史的風致」という言葉を見つけました。

「地域におけるその固有の歴史及び伝統を反映した人々の活動とその活動が行われる歴史上価値の高い建造物及びその周辺の市街地とが一体となって形成してきた良好な市街地の環境」を「歴史的風致」と定義(「地域における歴史的風致の維持及び向上に関する基本的な方針」平成20年、国土交通省など、より)

歴史的風致も風致のひとつのはずなのに、ここには自然的景観のニュアンスはみじんも入っていない。対象は市街地の環境です。いわばまちなみ。このほうが自分のイメージにしっくりきます。では法律ではなく、もっと一般的にはどういう意味で風致という言葉は使われているのか。

風致-自然界のおもむき。あじわい。風趣。風致地区-自然の風致の維持を目的として都市計画区域内に特に指定された地区。(広辞苑より)

辞書では自然よりですね。あるいは昔の作家はこんなことを書いています。

十一月十八日。くもりて風なし。近巷岨崖の霜葉あるいは紅にあるいは黄に雑草の霜枯れと共に皆風致有り。」(永井荷風、断腸亭日乗より)

色づいた葉の情景に風致があると言っているので荷風にとっても風致は自然の風物にみられる趣のことのようです。でも近巷、つまり東京は麻布近辺にあった荷風の家のあたりの景色を述べているわけで、まちなみのなかに存在する自然におもむきを見ているのだと思います。このあたり、私も共感できるのですが、自然と作為が同居するところにおもむきを感じているのだと思います。
ここでもう一度、鎌倉市風致地区条例案の前文にもどると「鎌倉の風致」の定義の中で歴史的風土という言葉に触れています。「歴史的風土」とは、古都保存法において「わが国の歴史上意義を有する建造物、遺跡等が周囲の自然的環境と一体をなして古都における伝統と文化を具現し、及び形成している土地の状況」のことだそうです。つまり文化財と自然が同居している状況です。まさに作為と自然ですね。歴史的という言葉が入ると風致や風土はがぜん人為的なニュアンスを帯びてきます。歴史は人がつくるものだからですね。

自販機のいろ

我が家のある町内には自動販売機って1カ所しかありませんでした。ある植木屋さんのお宅の駐車場内に自宅用っぽく置かれています。ところが昨年、路地に面したお屋敷の裏門に目にも鮮やかなブルーのコーポレートカラーをまとった自販機が出現しました。そのお屋敷は草木豊かなこの町内でも屈指の美しい庭と生け垣を持つお宅で、よもやそこにこんな破廉恥な物体が置かれるとは(じつは御当主が他界され、ご遺族は転居されて空き家になってしまったのです)。ご近所の奥さんも「目が痛い」というほど周囲と不釣り合いな色彩です。まちなかでは見慣れてる色だけれど、この環境で見ると激しく違和感を感じます。このあたりは県によって風致地区に指定されています。風致地区とは緑と調和するべき地区という意味だそうで、建物は色彩が規制されています。でも自販機は規制対象外なのです。
じつは鎌倉の鶴岡八幡宮と大仏の近辺にある自販機は景観カラーが義務づけられています。どの飲料メーカーの自販機でも薄いベージュに塗装されています。この自販機も景観カラーに塗り替えて欲しい。そこで、この自販機の管理会社に電話してそう言ったら「規制区域外は難しい」とにべもない。あきらめるしかないのか。
ところがそれから約半年後の先月になって、県が管轄していた風致条例の運用が鎌倉市に移管されることになり、新たに内容を見直すことになったという話をききました。そして今、市の案に対して市民の意見を募っているそうです。おお、だったら自販機のいろを規制してくれ。風致地区内では自販機は景観カラーにしてくれ。さっそく市民の意見として(パブリックコメントというそうです)市のHPを通じて担当部署にメールしました。受け入れてくれるでしょうか。

 

コミュニティハウジング

シニア向けのコミュニティハウジングを計画しています。コミュニティハウジングとは、分譲マンションにコモンスペースが付属している形式で、普通の住戸以外に住民みんなで使う大きなキッチンやダイニングルーム、リビングルームなどが用意されています。最近我が国でも見られるようになってきたコレクティブハウジングというものがありますが、それは賃貸のマンションにコモンスペースがついているもの。一方、住民が組合を作って設計委託するコーポラティブハウスがあり、こちらは所有権方式ですが、いっしょに食事などをすることは前提になっていないのでコモンスペースは限定的です。
コミュニティハウジングはコレクティブとコーポラティブのいいところを組み合わせたシステムで、所有権方式ながら住民同士がコミュニケーションをとりながら暮らしていく新しいタイプのコーポラティブハウスです。特に今回計画しているのはシニア女性向けのもので、年配の女性があつまって楽しく安心して暮らせるようにバリアフリー仕様で設計中です。
この建物が面する道はかつての商店街で、2階建ての木造店舗がだんだんと3階建てに建て変わっていっています。この建物は4階建てなのですが、その将来のまち並みに合わせて、道に面した正面は3階建てにします。同じ高さの壁面が並ぶまち並みにするためです。しかもその外壁を木板張りにすることで、鎌倉らしい印象をまち並みに与えたいと思っています。
山門のような構えを見せる木板張りの壁をくぐると広々としたポーチがあり、来訪者を迎えています。このポーチは地域に開放されたポケットパークとしても使ってもらいたいと思います。ポーチからドアを入ると玄関ホールに続いてコモンスペースが広がっています。住民同士が食事したりおしゃべりしたりする集いの場です。近所の人たちが訪ねてきて一緒に過ごすこともできます。2階から4階のそれぞれの住戸に上がるためのエレベーターはコモンスペースの奥に位置しています。ですから、住民は帰ってくると必ずコモンスペースを通るので、そこにいる同居者とあいさつを交わすことになります。隣人の顔も知らないという都会のマンションとはちがう、暖かな人間関係がコミュニティハウジングにはあります。

年度末に思う

新しい手帳を注文しました。正月からではなく、4月から始まる形式の手帳です。大学のスケジュールに合わせているのですが、そもそも日本の学校や役所など公共的な制度はなぜ4月から新年度なんでしょうか。明治時代にそれを決めた人はちゃんとお正月という区切りがあるのに、それとは別に年度制をつくっても面倒になると思わなかったのでしょうか。同じように、暦も和暦と西暦の2種類を併用しています。あれは平成で言うと何年?みたいに面倒な思いをする場合があります。ちなみに今年は「昭和88年」だそうです。
日本の家では裸足ですが、会社や学校では靴を履いています。また、同じ家の中に畳とフローリングがあります。食事の時、ナイフ&フォークと箸を使い分けています。文章は縦書きと横書きがあり、結婚式は神前で葬式は仏前だったり。
日本の生活にはこういうダブルスタンダードがいくつもあって、面倒と思うよりどっちも使えてラッキー、みたいな感じです。なかでも一番便利なのはうらおもて、というやつですかね。

クリスト

建築や橋などを布で梱包する作品で知られるクリスト。彼の次のプロジェクトである「オーバー・ザ・リバー」が2015年の夏に実現する予定です。場所はアメリカのコロラド州。タイトルどおり、川面の数メートル上に天幕のように布を張るもので、対象流域は約65kmで布の長さは合計約10km。布の下を川下りしながら透けて見える空や雲を眺めて楽しめるそうです。
このプロジェクトは1992年から進めているもので、当局の許可を取るのに長い年月と数億円の経費がかかっているそうですが、昨年、やっとその許可が下りたそうです。クリストの作品としてもこれまでにないスケールの大きさで、しかも今後計画されているプロジェクトはこれと「マスタバ」だけらしい。マスタバはまだ実現の目処がたっていないので、もしかしたらオーバー・ザ・リバーがクリストの最後の実現作になるかも。日本で唯一実現した1991年の茨城の「アンブレラ」も見ていないので、ぜひ今度は実物を見に行きたい。地元の環境保護団体が反対しているらしいけど、ちょっとの間だけなんだから大目にみてくれないかな。

今年の景観ワークショップ

毎年冬にやっている景観ワークショップ。今年で4回目です。今回は「鎌倉—風景の再読」というテーマです。再読?つまりいつもはあまり意識していないで目に入れているモノを再認識すること・・・・・・かな。そして風景を再読するために、今回のワークショップでは「風景のたね」という装置をつかうのです。詳しくは下記の説明を見てください。2月2日(土)と3日(日)の10時から由比ガ浜商店街の「鎌倉まちの駅」でやってます。申し込み不要ですので、ふらっとのぞいてみてください。

フェイスブックはこちらhttp://www.facebook.com/kkanws2012?fref=ts

 

材木座の津波対策の取材

事務所のある材木座の町内では、道のまがり角にくると路上に矢印入りのステッカーが貼ってあります。これは津波から避難するときに逃げる方向を示している避難誘導ステッカーです。土地勘のない人でも迷わず避難場所に行けるように考えられたものです。材木座の町内会の方々は津波対策に熱心に取り組んでいて、ステッカーの他にも高台へ上がる階段を整備したり、避難の近道のためにブロック塀を乗り越えるはしごをつくったり、「逃げ地図」をつくって最短避難ルートをチェックしたりと、対策に怠りがありません。こうした取り組み聞きつけたNHKが、テレビで紹介するために取材にきました。自治会の役員さんたちは整備の現場を案内して、インタビューに答えていました。みなさん、活き活きとしたいい顔でした。こういう発信の機会があると地域活動もいっそう身が入りますね。

陸前高田の集会所ができました。

春から取り組んできた陸前高田の集会所がひとまず竣工しました。屋根も壁もトタン張りの約50㎡のワンルームです。予算がきびしかったこともさることながら、施工を請け負う余裕のある工務店が地元に見あたらず、一時は自力建設まで考えた難航したプロジェクトでした。
それでも各方面の協力を得て建物は完成し、11/18には盛大に竣工式が執り行われました。写真の玄関前に立っておられる方は集会所を利用するこの地区の只出部落会の戸羽会長さんです。
このプロジェクトは私の大学院の研究室に所属するひとりの学生が持ち込んできたものです。彼の父の地元が陸前高田だということもあり、被災地のために集会所を建てたいという熱意が周囲を巻き込んで集会所を実現させました。竣工にあたってある新聞社に送った経緯を説明する文章があるので、それを転載します。

 陸前高田市小友町唯出地区。津波による壊滅的な被害のあった陸前高田の市街からは広田半島の丘の裏側になる。小さな湾に面した斜面に約100戸の世帯が集落を形成していたが、その約3分の1の家が津波で流された。
 この集落に今月はじめ、小さな仮設の集会所が竣工した。トタン葺き木造平屋建て、面積約50平方メートルのちいさな納屋のような建物である。やはり津波で流されたこの地区の公民館が高台に再建されるまで、それに代わる仮の集会施設として建設された。この集会所を企画から設計まで担って実現させたのは東京のひとりの大学院生だった。
唯出地区では、復興計画の話し合いや仮設に住む住民が立ち寄るための拠点となる公民館の早期の再建が待ち望まれていた。しかし行政による再建計画は、市の中心部の復旧さえ見えない状況下では何年かかるかわからない。集落の自治組織である只出部落会には公民館を自力で建設する資金はない。震災後1年経った時点で、新たな集会施設を実現する目処はなかった。

 陸前高田出身の医師を父に持つ似鳥(にたとり)俊平は、東京工業大学の大学院で建築を学んでいる。父の生家も今回の津波で流されており、被災地のために自分がなにかできることはないかと考えていた。雑誌で若手の建築家たちが仮設集会所を建設した記事を見て、彼もこれに挑戦する。
 まず資金を確保するために、父から知人の会社社長を紹介してもらった。5月、そのニトリ社の似鳥(にとり)社長に仮設集会所の建設計画をプレゼンテーションし、500万円の寄付金の提供を承諾してもらう。
 次にやはり父のつてで陸前高田の市職員に会い、計画を説明して建設地の用意をお願いする。最初に候補に挙がった仮設団地内の敷地は避難住民に「避難長期化」を前提とする計画のように受け取られたこともあって断念。もっと集会所を必要としている地域に用地を定めることにした。その後6月になって、今回の敷地が候補に挙がり、地主の了解を得て建設用地として決定された。
 予算と敷地が決まり、いよいよ設計の段階になったが、学生である俊平に実施設計の経験はなく、また建築士の資格もない。そこで大学院の指導教員である私に支援の要請をしてきた。俊平の意向を受け、研究室として実施設計と建設の技術的支援を行うことを決めた。
 7月、研究室で設計作業を進める一方、現地の建設業者をあたってみたところ、陸前高田市内の業者はどこも2年先まで仕事がいっぱいですぐに工事を請け負ってくれるところはないことが判明した。困って学生による自力建設まで考えていたとき、ニトリ社の店舗部門の担当者から盛岡の建設会社の営業マン、田村氏を紹介してもらう。俊平が田村氏と会って計画のいきさつを説明し、なんとか建設を引き受けてもらうことができた。
 8月末、部落会の戸羽会長がニトリ社を訪問し、寄付の目録の贈呈式が行われた。その後、部落会の臨時総会での計画承認を経て、工事の日程協議に入った。
 9月、実施設計が終了して確認申請作業をおこなっている時期に、工事の見積もりをしていた田村氏から予算を数十万円オーバーしているとの連絡があった。減額のために設計を見直す中で、一番大きな窓の制作費を下げるために、中古の木製建具を採用する案を検討することにした。神奈川県葉山町にあるアンティーク建具専門店「桜花園」に出向き、計画を説明したところ、被災地支援のためならと、必要な建具をすべて半額で提供してもらえた。
 そして9月15日、地鎮祭が執り行われた。部落会の面々と、田村氏、現場を担当する菊池氏、俊平と私が参加した。9月末に着工、工事費を節約するための住民ボランティアによるペンキ塗りなどもあり、約1ヶ月の工期で無事に完成した。簡素ではあるが、愛着を持って使ってもらえる建物になったと思う。
 来る11月18日(日)に集会所の竣工式が行われる。ニトリ社の社長、部落会の人たち、建設関係者、そして俊平の父も列席する予定である。

カンナがけワークショップ

みなさん。日曜大工でのこぎりや金づちは使っても、カンナは使ってないでしょう?DIYが得意な人でもノミかヤスリが素人には限界なのではないでしょうか。私も現場では目にするけど自分でカンナがけしたことはありません。でも、大工さんがしゅーっとカンナクズを削りだしているのを見ると気持ちよさそうだと思ったことはありませんか。
そこで、中学生の子どもを持つお父さんたちとカンナがけワークショップを開きました。講師には大工で「削ろう会」会員でもある白鶴工舎の石倉棟梁に来てもらって、まずは刃の研ぎ方から教えてもらいました。

集まったお父さんたちと会場である鎌倉市立第二中学の先生たちにプロの道具の扱い方を披露してくれる石倉棟梁。研ぐ前にまず砥石の表面を平らにする作業があります。そのための砥石ヤスリなんて初めて見ました。さすがプロフェッショナル。それから刃をとぎはじめますが、真似してやっても「角度が寝過ぎてます」などとと指導されるお父さんたち。これだけで日が暮れそう。難しいですね。「研ぎで三年」ていいますからね。
次に棟梁にお借りしたカンナで試し削りです。最初にお手本を見せてくれました。しゅーっ。「おお!」サランラップくらいの薄さのカンナクズが出てきました。みんなもおそるおそるやってみました。すると以外にもお父さんたちもしゅーっとできます。そんなに難しくありません。つい(なんだ、以外と楽勝じゃん)と思ったのです。

ところが私のカンナでやってみると、「あれ?」カンナクズが出てきません。ぜんぜん削れない。別のお父さんのカンナもゴソゴソ、みたいな感じで、せっかくのヒノキのつやつや肌がガサガサの荒れ肌になってしまいました。どうして?じつは刃の出し加減だけでなく、カンナの台の調整に名人芸が潜んでいたのです。砥石ヤスリにつづいて、カンナの台を削るためのカンナが登場。これで台を真っ平らにしないとダメだそうです。奥深すぎ。

その後、みんなで学校の痛んだテーブルを削ってきれいにしてあげました。
それにしても匠の技はすごいですね。これじゃ日曜大工でできないわけです。以上、カンナがけワークショップの報告でした。

逃げ地図ワークショップ

「そなえる鎌倉」連続シンポジウムの地区シンポジウム第1回が材木座公会堂で行われました。日建設計ボランティア部の羽鳥達也さんたちによる「逃げ地図」のワークショップです。地区の住民の方々約30名が参加してくださいました。
最初に羽鳥さんから「逃げ地図」の作製方法についての説明がありました。過去の津波の限界ラインにゴールを設定し、そこからお年寄りの歩く速度で3分ごとの距離に色鉛筆で道路に色を塗っていく作業です。

説明を聞いてもみなさんよくわからない様子。でも羽鳥さんは「作業を始めればすぐにわかります」と言っています。
そして5つのグループに分かれて作業開始。地図に色を塗るのですが、地図上で129mの長さに相当する革紐で距離を測りながら色を変えて塗っていきます。でも地図に書いてあっても現在は通れない道や、暗渠になっていて津波が来ると水があふれて通れなくなる道など、地元の住民でないと知らない情報を出し合いながら、避難可能なルートに彩色していきました。

羽鳥さんの言ったとおり、作業を始めるとみなさんすぐに要領を得て、「ここは行き止まりだ」「この下は暗渠になってる」と熱心に取り組んでいました。

そしてできた「逃げ地図」が上の写真です。エリアの右側にいくつかある赤い○がゴールで、そこまで逃げるのにかかる時間に応じて緑→黄緑→黄色→オレンジ→赤→紫→黒と色分けされています。黒い道は18分以上かかるわけです(お年寄りの歩く速度を毎分43mとして計算)。これを見てわかることは、材木座にいる場合の逃げる方向は海から遠ざかる北方向ではなく、海岸と並行に東方向に逃げるべきだという事実です。また、当事務所の前の道はオレンジなので、12分かかることがわかりました。

今回の地区シンポの成果は11/18の第4回市民シンポジウムで報告される予定です。

コミュニティ真鶴の石

真鶴に釣りに行ったついでに、以前から見たかった「コミュニティ真鶴」の建物を見てきました。真鶴町はまちづくりの指針として独自の「美の基準」を定めて魅力ある建物や道空間を大切にしているそうです。その基準に基づいて多くの町民がワークショップによって設計を進めたという実験的な試みの成果がこの「コミュニティ真鶴」なのだそうです。
各部の形もユニークですが、材料とその使い方が、どこか懐かしい印象を見る人に抱かせる設計です。ですから建物はとても人なつこい感じがします。真鶴は小松石の産地なので町に石屋さんが多いのですが、この建物には石製品の製作過程で出る石のかけらを集めて外壁に張っているところがあります(写真の奥の壁)。かけらは普段はゴミになっているそうです。

小値賀島で民泊

ちょっと早い夏休みを取って、家族で長崎県に行ってきました。五島列島にある小値賀島です。五島列島と言えば釣りのメッカです。竿を宅配で送って乗り込みました。
飛行機、バス、高速船を乗り継いで6時間半、思ったより早い。港に「民泊ぶうさんち」のぶうさんと美保さんが迎えに来てくれました。民泊というのはこの島のオリジナルの滞在のしかたで、民宿とはちがいます。建物はまったく普通の民家で、台所でいっしょにご飯をつくって食べて飲んで片付けもするという、お客というより居そうろうみたいな感じ。洗濯や掃除をする人も。それで一泊二食¥6,300です。民宿の方が楽じゃないか、とも思ったのですが、昨年利用した弟一家がとても良かったというのでいっしょに行くことになったのです。

ぶうさんちはぶうさんが廃屋になっていた古民家を借り、ご自分で手直しした家で、しぶい玄関土間があり、ちょっと大きめの風呂場がありますが、あとはただの自宅。でも庭のテーブルからの眺めは山あいの民家の瓦屋根越しに湾が見えてとても美しい。ぶうさんも海が見える立地が気に入ってこの家を借りることにしたのだそうです。不動産業界で言う「海見え物件」ですね。

さて、気になる食事ですが、じつはぶうさんは元板前、そこにきてとれたての五島の海の幸ですからまるで高級料亭!。江ノ島あたりの魚食堂とは比べものになりません。つぎつぎとうまい刺身や焼き物や汁物が出てきます。野菜も島の畑で獲れたものばかりで新鮮。しかも一手間かかってます。どれもおいしい。盛りつけも美しい。実は民泊なんですが、ぶうさんの前では手伝う余地なしです。酒も料理に合わせて出してくれました。竿と一緒に送っておいたワインが場違いでした。

さて、小値賀島は噴火でできた旧鎌倉エリアくらいの大きさの溶岩性の島です。そこにいくつかの集落が散在していて、魚はもちろん米から牛、野菜まで生産しており、自給自足もできる豊かな土地です。地元の人たちがみな気さくで、また住民同士の隣近所のつきあいが盛んで、お裾分けがご近所からどんどんやってくるのです。じっさい、我々が滞在していた4日間のうちにご近所からいただいたものが鰹(2本)、スイカ(1個)、ところてん(1バット)、シイラ(1本)です。切り身じゃない、全部まるのまんまです。しまいには夕食時にお隣の兄さんが焼酎一升持って酒盛りしに来ました。

お隣さんといえば、早朝に散歩していると隣のおじいさんが耕耘機に乗っているので田んぼに行くんですか、と声をかけたら「行くか?」といって荷台に乗せてくれました。耕耘機で道路走るのは子供の頃見たことあったけど、乗ったのは初めてです。するとあちこちで同じような耕耘機とすれちがいました。どうやら島ではお年寄りの軽トラがわりになっているようです。最高時速10kmくらいだし。
午前中は歩いて3分の波止場におりて釣り、午後はぶうさんちの車を借りてビーチで海水浴。いただいたスイカでスイカ割りも。夕食後も波止場に行って夜釣りしつつ、堤防に寝そべって夕涼み。もう島の暮らし満喫しました。たしかにこれは民泊しなくてはできない島暮らし体験ですね。
この民泊以外にも小値賀島オリジナルの滞在プランがあります。古民家ステイ、といって、こちらはちょっと高級志向。程度のいい古民家を建築家がかっこよくリフォームして素泊まりの宿泊施設にしています。料理はやはり古民家のレストランに行くか、デリバリーしてもらいます。朝食も届けてくれます。若いけど経験豊富なシェフが島の食材を活かしたメニューを用意しています。一泊2食で¥25,000くらい。ゴージャスでプライベートな旅には悪くないですね。

これらの島オリジナルの滞在プランは始まってまだ数年のものなのですが、すでに観光業界の注目の的だそうで数々の観光賞を受賞しています。よくできてるなあ。誰が考えたんだろう、とぶうさんに聞いたら、じつは仕掛け人がいました。京都の大学を出て島に渡ってきたヨソ者で、いろいろなアイデアを出し、専門家を呼び、島民を巻き込んで小値賀島を楽しい島暮らし体験の観光地にしたのだそうです。新規の箱物などはつくらず、島の昔ながらの暮らしを売り物にしていったのです。小値賀アイランド・ツーリズムという組織をつくり、観光のすべてのアイテムの窓口をここに一本化し、トータルで楽しむことをサポートしています。たくさんの自治体の視察が引きも切らないそうです。
もしかして、あのおじいさんの耕耘機も偶然を装って実はプランに組み込まれていたのかも?

陸前高田の集会所プロジェクト

今年の夏は大学の研究室のプロジェクトである陸前高田の集会所建設で忙しい。約100戸の半数が津波で被災した集落で、津波に流された公民館が再建されるまでのあいだ、仮の集会施設が求められています。ある企業の寄付金により必要最小限の建物を建てることが決まり、その設計を研究室の学生と行っています。
今週もその地区の自治会の方々との打合せに行ってきました。私が現地に行くのは今回で2度目ですが、現地の方と市役所の会議室で会議したり、お宅に伺ったりしてこれまでのまちの様子や震災当時の状況などをお聞きしながらプロジェクトを進めています。
写真は自治会の方と市役所のプレハブの会議室で話をしている様子ですが、みなさん姓が「戸羽」さんです。100世帯の半分くらいは同じ姓なのだそうです。それぞれをどうお呼びしたらいいか困って「お互いをどう呼んでいるんですか」とうかがうと下の名前や屋号で呼んでいるそうですが、外部の人間にはすぐ真似できないです。
いま、そのプロジェクトでちょっと壁にぶつかっているのですが、それは現地で大工さんが忙しくて仕事を引き受けてくれる人がいないということです。陸前高田のいくつかの工務店をあたってみましたが、みな2年後くらいまで仕事が詰まっていて今年の夏の工事など引き受けられないといわれてしまいました。しかたがないのでなるべく簡単に工事できる設計にして、いざとなったら学生たちが自力建設できるように考えています。

 

 

そなえる鎌倉

私の参加しているまちづくり団体「ひと・まち・鎌倉ネットワーク」で今年の春から準備してきた連続シンポジウムがいよいよ来月から始まります。名付けて「そなえる鎌倉」。何にそなえるのかというと、もちろん大地震と津波です。詳細は同名のフェイスブックのサイトをご覧ください。ここではポイントだけ紹介します。まずはチラシをご覧ください。タイトルバックの空撮写真は鎌倉市からお借りしました。旧鎌倉地域から江ノ島までの沿岸部が写っています。また緑に覆われた丘陵もよくわかります。津波警報が出たらこの丘陵まで逃げればいいのです。でも言うは易く行うは難しで、もし観光客が大勢いる休日に警報が出たら車は渋滞、路地は迷路、右往左往する観光客に行く手をふさがれてお年寄りも立ち往生してしまうかも知れない。そこで、↓


↓どの道を行けばそこから最短で丘陵の避難場所にたどり着けるかという最適ルートとその時間を明示できるのが「逃げ地図」です。地区シンポジウムの第一回目はその逃げ地図の仕組みと作製ノウハウを学ぶワークショップを行います。
丘陵に避難して命が助かったら、次は生活の再建です。ショックから立ち直るのに時間がかかるでしょうが、できるだけ早く動き始めることがその後の成果にものを言うようです。そこで災害が来る前にあらかじめ生活再建の道筋をみんなで話し合っておきましょう。地区シンポジウムの二回目は再建計画のマニュアルをつくる方法を学びます。
ところで、先日藤沢の海岸に「津波避難タワー」が神奈川県によって建設されました。浜にいる人がそこに上って津波をやりすごすための工作物ですが、たった数メートルの高さに数十人しか乗れないサイズです。津波が迫る状況下では「蜘蛛の糸」さながらの阿鼻叫喚の地獄絵になるかもしれません。性能的にも期待できないのですが、なにより困るのはその見た目です。鉄骨むきだしのでっかい物干台か立体駐車場のようで、見た目のことは全く考慮されていません。海辺の景観など命に換えられないだろう、という担当者のいいわけが聞こえてきそうな設計です。いや、あきらめてはいけません。鎌倉は観光都市として生きるまちです。多くの市民と観光客の避難を助け、かつ、景観資源となるような美しい避難施設をそなえるべきなのです。そんなことできるの?それが地区シンポジウム第三回のテーマです。
第四回目は市民シンポジウムと銘打って、300人くらい入る大きな会場で各地区シンポの講師陣によるパネルディスカッションを開きます。また、会場からの発言も採り上げたいと思います。どうぞみなさま、ふるってご参加ください。

 

小学生と川探検

毎年夏になると、鎌倉市内の小学生といっしょに川探検に行きます。今年は御成小学校の4年生と、大刀洗川に行きました。4年生には川の学習があり、川の生き物や流域の地勢などを学ぶようです。ここ数年、第二小学校、第一小学校、御成小学校の4年生と川に入っています。今年は大刀洗川の生き物探しと川のはじまり探しの2つのテーマを持って行きました。鎌倉駅からバスで15分ほど、朝比奈切り通しに近い森の中に今回の活動場所を設定しました。ここは人工的な護岸がなく、自然の川の景観が残っています。そして10分くらいさかのぼると、川のはじまりの地点があるのです。
まず、川の生き物探しをしました。最初に「大きな声で騒ぐと生き物が逃げてしまうよ」と言っておいても、こどもたちは川に入ると当然大喜びで「あっ、なんかいた!」「どこどこ?」「カニだ—!」「きゃー!」と大騒ぎ。小さな魚やサワガニ、ヤゴ、アメンボ、ゲンゴロウの仲間などが見つかりました。一応、学習なので水質検査もします。スポイト型の検査キットに川の水を入れて、試薬の色が変わるのを観察しました。
30分ほど川で遊んだあと、生き物を川に返して、川のはじまりを探しに行きました。朝比奈切り通しにつづく山道の脇にせせらぎがあるのですが、登るにつれてだんだん細くなり、ついに消えてしまいました。その付近を探すといくつかの岩のすき間からポタポタとしずくが落ちています。このしずくが大刀洗川の源流で、しばらく下ると滑川と合流し、由比ガ浜海岸で海に注ぐのです。
源流から河口まで、自分たちの町の中で見ることが出来る鎌倉のこどもたちは幸せです。大人になってもその体験は忘れないでしょう。そして自然や景観を大切に考えるひとになってくれると思います。

足の下に埋まっているもの

鎌倉文学館が催した「カマクラから創る」という鎌倉在住作家らによるシンポジウムを聴きにいってきました。お目当ては柳美里さんです。柳さんは昨年来twitterでときどき、観光客でごったがえす鎌倉に大津波が襲った場合の被害の心配をつぶやいていて、それを見て以来、ちょっと注目しています。もちろん今日のシンポジウムは災害がテーマではないので津波の話はありませんでしたが、パネラーの作家さんたちがそれぞれの鎌倉への思いを語っていて楽しめました。
柳さんは祖父ゆずりのマラソンランナーであることは良く知られていて、鎌倉の町をいつも走っているそうですが、鎌倉の印象について問われ、こう答えていました。
「化粧坂を走ることがあるのですが、あの辺りは夜は真っ暗なんですね。ひとりで走っていると、自分の息遣いに、だれか別の人の息遣いが重なってくるような感じがすることがあるんですよ。(中略)鎌倉は長い歴史の時間が足の下に埋まっている気がしています。」
それはつまり霊的なものを感じるということのようですが、別のパネラーも同じような霊的体験を話していました。
そういえばシンポジウムに行く前に材木座に友人が建てた住宅を訪問したのですが、その住宅の手前に材木座から小坪に抜ける小さなトンネルがあるのが目に入りました。通称「おばけトンネル」です(タクシーのフロントグラスにザンバラ髪の侍が・・・・・・)。ほかにも鎌倉には侍のおばけスポットがたくさんあるようです。
歴史ある町だからこそそうしたエピソードが語れらるのであって、これも鎌倉の持つ魅力のひとつと言えるのかもしれませんね。

早すぎた「加藤さんのはなれ」

以前からぜひ見てみたいと思っていた住宅を見学する機会を得ました。鎌倉のあるお宅の庭先に建つ小さな「はなれ」です。約十坪の切妻の和風建築ですが、山椒は小粒でもぴりりと辛い作品。戦後間もない1954年の完成。この完成年をよく覚えておいてください。
何がぴりりなのか?上の写真でわかるように、軒の深い屋根と引き込み建具によって、庭と一体化した開放的な空間とすることは、いわば和風住宅の常套手段。実はこの作品のすごいところはその伝統的な外観に内在するウルトラモダンな平面形式にあります。
・・・道から敷地に入ると木々に囲まれた高床式の住宅がある。庭からゆったりした階段で縁側に上がる。玄関などない。床から天井までのガラス戸を開けてワンルームの室内に直接入る。空間の中央に石壁で囲まれた浴室がある。その周囲を居間、台所、寝室が取り巻いていて流動的に連続している・・・・・・。私が訪問させてもらった場面の描写ですが、近代建築をかじった方なら、この描写がミース・ファン・デル・ローエ設計のファーンズワース邸のそれとそっくりであることに気がついたのではないでしょうか。
水回りの入ったコアを中央に持つ高床式のワンルーム形式、床から天井までのガラス開口(切妻の屋根に沿った3角のガラス欄間になっている)、床と同レベルのテラスからのアプローチ。コンセプトはほとんど同じと言えるでしょう。
そうは言っても単なる物真似ではなくて、やっぱり日本の家は軒と引き戸だという基本を守っています。まもっているどころか、低い軒を1.5mも差しだしていたり、1間半幅はありそうなガラス戸をコーナーから引き分けてぬれ縁と室内を一体化させるなど、その和風の手法も極限まで洗練されています。ミースの住宅が軒がなくてほとんどはめ殺しであることとは対極的です。
設計したのは早稲田大学で建築を学んだ曽原国蔵という建築家。’50年代末から’60年代にかけて雑誌にいくつか作品を発表していますが、この「加藤さんのはなれ」が処女作です。
気になるのは、ファーンズワース邸とほとんど同じ平面形式の住宅を設計するにあたって、曽原はミースの住宅のことを知っていたのかどうかです。ファーンズワース邸は1950年に完成していますからこの住宅より4年早い。しかし、雑誌「新建築」にそれが掲載されたのは1954年7月号です。一方、「加藤さんのはなれ」はそれに2ヶ月さきだつ’54年の5月号に掲載されています。戦争が終わってまだ数年しか経っていないのですから設計中に外国の雑誌が簡単に手に入るとも思えません。もしかしたら曽原はミースの影響を受けずにこのコアのある高床住宅を設計したのかも。また、コアと言えば増沢洵の「コアのあるH氏の住まい」が有名で、’53年に出来ていますが、これが「新建築」に発表されたのが同じく’54年の9月号です。つまり日本の建築界には曽原、ミース、増沢の順でコアのある住宅が紹介されたことになります。
私は曽原の作品は我が国の戦後住宅史上、画期的な作品と言えると思うのですが、実はそれほど有名ではないのはなぜでしょう。その理由の一つは和風の常套手段がカモフラージュになってそのモダンな形式を見えにくくしていることです。でもそれだけではないはず。だって同じ切妻、軒、引戸を採用している増沢の作品が戦後モダン住宅の代表と見なされているのですから。
私は、雑誌に発表された順番に原因があるのではないかと考えます。ファーンズワース邸が出たあと、住宅におけるコア形式が建築界の話題になったであろうことは間違いありません。ファーンズワース邸が発表された号の「新建築」の巻頭テーマはずばり「コア」です。その2ヶ月後の号に作品を発表するにあたり、増沢が長ったらしい「コアのあるH氏の住まい」というネーミングをつけた意図はいわずもがなです。
一方、ミースより先に掲載された曽原の解説文にはコアのコの字も出てきません。つまり、雑誌発表が早すぎて、見過ごされちゃったのではないでしょうか。もしミースの直後に雑誌に発表されていたら、この「加藤さんのはなれ」の日本戦後住宅史における位置づけも、曽原国蔵という建築家の人生も、もっと違うものになっていたと思わずにはいられないのです。

釜石の奇跡といわれた津波防災教育

東日本大震災の津波被害に遭った釜石では、学校にいた小中学生が全員助かり、「釜石の奇跡」と言われています。その子どもたちに防災教育をしていた群馬大学片田敏孝教授の講演会が鎌倉で開かれました。聴講メモよりお話しの一部を抜粋して紹介します。

片田敏孝講演録
日時・2012年4月22日
場所・鎌倉市立御成小学校体育館 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・  釜石の小学校、中学校で防災教育をはじめて8年目だった。

・  釜石の奇跡と言われるが、学校管理下にあった小学生1,927人、中学生999人は全員助かったが、その時間に学校管理下になかった5人が死亡している。

・  津波防災にかかわるきっかけは2004年のインド洋スマトラ沖地震被害調査にインドに行ったこと。23万人が死亡。

・  釜石で防災教育を始めた理由。各地で防災の講演をしても聴きに来る人はもともと防災意識が高い人たちなので、広まらない。そこで、拠点を定めて(釜石と三重県の2カ所)そこから広める方針にした。

・  今回の震災前、地震の時避難したか調査すると、釜石でも2%しか避難していない。子どもに聞くと「お父さんが逃げないから。だって立派な防潮堤があるから逃げなくていいって」と答えた。子どもは置かれた状況で育つ。

・  防災教育を受けた子どもは10年後に大人(市民)になり、さらに10年後に親(文化の担い手)になる。

・  防災の基本「大いなる自然に畏敬の念を持ち、行政に委ねず、自らの命を主体的に守る」

・  キーワードは「想定外」。本当に想定外だったのか。明和地震では石垣島に85mの津波が来ているし、富士山が噴火したことだってある。

・  行政による防災は、まず守る目標を定め、それ以上はあきらめるという「想定」が前提になっている。「100年に1回」的な確率の想定によって、ほとんどの災害を制圧した気分になる。

・  田老町のX型防潮堤ができたら、当地の住民は避難訓練に参加しなくなった。

・  釜石の世界一の防波堤ができたとき、これで安心して暮らせると住民が言った。完成式典で講演して安心しないでと言ったら怒られた。安心すると逃げ遅れる。行政まかせ、他人まかせになってはいけない。

・  今回の津波は想定外ではないし、想定が甘かったのでもない。問題は「想定にとらわれすぎた防災」。

・  釜石の防災教育3原則「想定にとらわれるな。避難は最善を尽くせ。率先して避難するひとになれ。」

・  釜石の大槌湾地区。死者はハザードマップの津波被害予想エリアの外で出ている。

・  同地区の釜石東中学校の生徒は隣の鵜住居小学校の児童の手を引き、保育園の子どもをかかえ、お年寄りの車椅子を押しながら高台に避難した。両校ともハザードマップでは津波被害予想エリア外。まず最初に、グランドにいたサッカー部の生徒が逃げ出す。その際、小学校に寄って校舎に向かって「逃げるぞ!」と叫んだ。それを見た児童が「3階に上がりなさい」という先生の声を無視して逃げ始める(同調バイアス)。中学生はみんな小学校に寄りながら児童と一緒に逃げた(津波は校舎の屋上を超えた)。子どもたちは避難所に指定されたグループホームに逃げた。だがもっと上に行こうという生徒の声で、全員がさらに高いデイサービスに移り出した。その直後にグループホームが津波にのまれ、最後尾の生徒はすねまで水につかった。デイサービスにも水が迫り、子どもたちはあわてて斜面を登った。

・  「最善を尽くせ」の意味は、少しでも安全性が高まる避難方法が考えられるなら、その手段を取り続けろということ。ここなら大丈夫だろう、と安心しないこと。もし津波が来なければ、「よかったね」といって帰ればいい。逃げた子をほめるように。

・  「率先避難者になれ」の意味は、危ないと感じても自分は大丈夫だと思い込もうとする「正常化の偏見」を打ち破るために、逃げる人を見ると同調して逃げる「同調性バイアス」を働かせるため。ひとりで逃げろ、ということではなく、最初に逃げ始めろということで、余裕があったら弱者を助けながら逃げるべき。

・  「姿勢の防災教育」が大切。主体的な姿勢をつくる。地震が来たら津波が来ると思って逃げるのが釜石で暮らす作法だという津波防災の姿勢。良くないのは「脅しの防災教育」(効果が長続きしない)と「知識の防災教育」(想定にとらわれ行政まかせになる)。

・  子どもに「ひとりで家にいて地震が来たらどうする?」と質問すると「お母さんに電話する」と答える。子どもに親へ「僕は逃げるから学校に(家に)迎えに来ないで」と言わせた。そのときに親が子どもに言って確認すべき3つの言葉「(あなたはちゃんと逃げることが)わかった」「じゃあ、ママも逃げる」「あとで、迎えに行くね」

・  「津波てんでんこ」の片田的解釈:「自らの命に責任をもつこと。家族との信頼関係を築くこと」

・  避難訓練では中学生がリヤカーを引いてお年寄りを運んだり、炊き出ししたり、手作りの「安否札」を配ったり町ぐるみで避難訓練した(それでも千人亡くなって残念)。

・  中学生には「助けられる人でなく助ける人に」と教えたが、震災当日はそれを言ったことを後悔した。自己矛盾していると思う。当日は八戸にいたが、揺れが収まってすぐに助けないでいいから逃げろと電話しようとしたがつながらなかった。

・  世界の大地震の記録を調べると、大地震の前後10年位の間に地震が繰り返される傾向がある。今後10年は日本に大地震が来る可能性が高い。長い揺れは海溝型地震なので大津波が間を置いて来る。

・  段階的避難所計画。安全か危険かではなく、地区を安全レベル評価で4段階に分け、安全レベルを高める手段として避難設備(避難タワー、避難ビル、高台階段・・・)を設け、「時間がない場合に逃げるところ」と考える。「しょうがない」場合に利用する。

(記録・文責 熊倉洋介)