陸前高田の集会所ができました。

春から取り組んできた陸前高田の集会所がひとまず竣工しました。屋根も壁もトタン張りの約50㎡のワンルームです。予算がきびしかったこともさることながら、施工を請け負う余裕のある工務店が地元に見あたらず、一時は自力建設まで考えた難航したプロジェクトでした。
それでも各方面の協力を得て建物は完成し、11/18には盛大に竣工式が執り行われました。写真の玄関前に立っておられる方は集会所を利用するこの地区の只出部落会の戸羽会長さんです。
このプロジェクトは私の大学院の研究室に所属するひとりの学生が持ち込んできたものです。彼の父の地元が陸前高田だということもあり、被災地のために集会所を建てたいという熱意が周囲を巻き込んで集会所を実現させました。竣工にあたってある新聞社に送った経緯を説明する文章があるので、それを転載します。

 陸前高田市小友町唯出地区。津波による壊滅的な被害のあった陸前高田の市街からは広田半島の丘の裏側になる。小さな湾に面した斜面に約100戸の世帯が集落を形成していたが、その約3分の1の家が津波で流された。
 この集落に今月はじめ、小さな仮設の集会所が竣工した。トタン葺き木造平屋建て、面積約50平方メートルのちいさな納屋のような建物である。やはり津波で流されたこの地区の公民館が高台に再建されるまで、それに代わる仮の集会施設として建設された。この集会所を企画から設計まで担って実現させたのは東京のひとりの大学院生だった。
唯出地区では、復興計画の話し合いや仮設に住む住民が立ち寄るための拠点となる公民館の早期の再建が待ち望まれていた。しかし行政による再建計画は、市の中心部の復旧さえ見えない状況下では何年かかるかわからない。集落の自治組織である只出部落会には公民館を自力で建設する資金はない。震災後1年経った時点で、新たな集会施設を実現する目処はなかった。

 陸前高田出身の医師を父に持つ似鳥(にたとり)俊平は、東京工業大学の大学院で建築を学んでいる。父の生家も今回の津波で流されており、被災地のために自分がなにかできることはないかと考えていた。雑誌で若手の建築家たちが仮設集会所を建設した記事を見て、彼もこれに挑戦する。
 まず資金を確保するために、父から知人の会社社長を紹介してもらった。5月、そのニトリ社の似鳥(にとり)社長に仮設集会所の建設計画をプレゼンテーションし、500万円の寄付金の提供を承諾してもらう。
 次にやはり父のつてで陸前高田の市職員に会い、計画を説明して建設地の用意をお願いする。最初に候補に挙がった仮設団地内の敷地は避難住民に「避難長期化」を前提とする計画のように受け取られたこともあって断念。もっと集会所を必要としている地域に用地を定めることにした。その後6月になって、今回の敷地が候補に挙がり、地主の了解を得て建設用地として決定された。
 予算と敷地が決まり、いよいよ設計の段階になったが、学生である俊平に実施設計の経験はなく、また建築士の資格もない。そこで大学院の指導教員である私に支援の要請をしてきた。俊平の意向を受け、研究室として実施設計と建設の技術的支援を行うことを決めた。
 7月、研究室で設計作業を進める一方、現地の建設業者をあたってみたところ、陸前高田市内の業者はどこも2年先まで仕事がいっぱいですぐに工事を請け負ってくれるところはないことが判明した。困って学生による自力建設まで考えていたとき、ニトリ社の店舗部門の担当者から盛岡の建設会社の営業マン、田村氏を紹介してもらう。俊平が田村氏と会って計画のいきさつを説明し、なんとか建設を引き受けてもらうことができた。
 8月末、部落会の戸羽会長がニトリ社を訪問し、寄付の目録の贈呈式が行われた。その後、部落会の臨時総会での計画承認を経て、工事の日程協議に入った。
 9月、実施設計が終了して確認申請作業をおこなっている時期に、工事の見積もりをしていた田村氏から予算を数十万円オーバーしているとの連絡があった。減額のために設計を見直す中で、一番大きな窓の制作費を下げるために、中古の木製建具を採用する案を検討することにした。神奈川県葉山町にあるアンティーク建具専門店「桜花園」に出向き、計画を説明したところ、被災地支援のためならと、必要な建具をすべて半額で提供してもらえた。
 そして9月15日、地鎮祭が執り行われた。部落会の面々と、田村氏、現場を担当する菊池氏、俊平と私が参加した。9月末に着工、工事費を節約するための住民ボランティアによるペンキ塗りなどもあり、約1ヶ月の工期で無事に完成した。簡素ではあるが、愛着を持って使ってもらえる建物になったと思う。
 来る11月18日(日)に集会所の竣工式が行われる。ニトリ社の社長、部落会の人たち、建設関係者、そして俊平の父も列席する予定である。