以前からぜひ見てみたいと思っていた住宅を見学する機会を得ました。鎌倉のあるお宅の庭先に建つ小さな「はなれ」です。約十坪の切妻の和風建築ですが、山椒は小粒でもぴりりと辛い作品。戦後間もない1954年の完成。この完成年をよく覚えておいてください。
何がぴりりなのか?上の写真でわかるように、軒の深い屋根と引き込み建具によって、庭と一体化した開放的な空間とすることは、いわば和風住宅の常套手段。実はこの作品のすごいところはその伝統的な外観に内在するウルトラモダンな平面形式にあります。
・・・道から敷地に入ると木々に囲まれた高床式の住宅がある。庭からゆったりした階段で縁側に上がる。玄関などない。床から天井までのガラス戸を開けてワンルームの室内に直接入る。空間の中央に石壁で囲まれた浴室がある。その周囲を居間、台所、寝室が取り巻いていて流動的に連続している・・・・・・。私が訪問させてもらった場面の描写ですが、近代建築をかじった方なら、この描写がミース・ファン・デル・ローエ設計のファーンズワース邸のそれとそっくりであることに気がついたのではないでしょうか。
水回りの入ったコアを中央に持つ高床式のワンルーム形式、床から天井までのガラス開口(切妻の屋根に沿った3角のガラス欄間になっている)、床と同レベルのテラスからのアプローチ。コンセプトはほとんど同じと言えるでしょう。
そうは言っても単なる物真似ではなくて、やっぱり日本の家は軒と引き戸だという基本を守っています。まもっているどころか、低い軒を1.5mも差しだしていたり、1間半幅はありそうなガラス戸をコーナーから引き分けてぬれ縁と室内を一体化させるなど、その和風の手法も極限まで洗練されています。ミースの住宅が軒がなくてほとんどはめ殺しであることとは対極的です。
設計したのは早稲田大学で建築を学んだ曽原国蔵という建築家。’50年代末から’60年代にかけて雑誌にいくつか作品を発表していますが、この「加藤さんのはなれ」が処女作です。
気になるのは、ファーンズワース邸とほとんど同じ平面形式の住宅を設計するにあたって、曽原はミースの住宅のことを知っていたのかどうかです。ファーンズワース邸は1950年に完成していますからこの住宅より4年早い。しかし、雑誌「新建築」にそれが掲載されたのは1954年7月号です。一方、「加藤さんのはなれ」はそれに2ヶ月さきだつ’54年の5月号に掲載されています。戦争が終わってまだ数年しか経っていないのですから設計中に外国の雑誌が簡単に手に入るとも思えません。もしかしたら曽原はミースの影響を受けずにこのコアのある高床住宅を設計したのかも。また、コアと言えば増沢洵の「コアのあるH氏の住まい」が有名で、’53年に出来ていますが、これが「新建築」に発表されたのが同じく’54年の9月号です。つまり日本の建築界には曽原、ミース、増沢の順でコアのある住宅が紹介されたことになります。
私は曽原の作品は我が国の戦後住宅史上、画期的な作品と言えると思うのですが、実はそれほど有名ではないのはなぜでしょう。その理由の一つは和風の常套手段がカモフラージュになってそのモダンな形式を見えにくくしていることです。でもそれだけではないはず。だって同じ切妻、軒、引戸を採用している増沢の作品が戦後モダン住宅の代表と見なされているのですから。
私は、雑誌に発表された順番に原因があるのではないかと考えます。ファーンズワース邸が出たあと、住宅におけるコア形式が建築界の話題になったであろうことは間違いありません。ファーンズワース邸が発表された号の「新建築」の巻頭テーマはずばり「コア」です。その2ヶ月後の号に作品を発表するにあたり、増沢が長ったらしい「コアのあるH氏の住まい」というネーミングをつけた意図はいわずもがなです。
一方、ミースより先に掲載された曽原の解説文にはコアのコの字も出てきません。つまり、雑誌発表が早すぎて、見過ごされちゃったのではないでしょうか。もしミースの直後に雑誌に発表されていたら、この「加藤さんのはなれ」の日本戦後住宅史における位置づけも、曽原国蔵という建築家の人生も、もっと違うものになっていたと思わずにはいられないのです。